先人達の「言葉」と「歴史」を引用することの意味 

時折、まるで「自分の言葉」ではないかと
感じるものに出逢うことがある。

もちろん肉体としては、別なのだけど

深く共鳴し、沁み入るような言葉とは

「人の言葉」を聴いているようで、
自分の記憶(データ)を辿っているような
そういうものなのかもしれない。

あるいは、その先人達の魂の一部が、
自分に引き継がれている(歴史を共有している)ということのように思う。

転生(過去生)は必ずしも、個人に帰属するものではなく、今世の設計(意図・役割)に基づき、共有されるもの、と認識している

一つの人生・時代の中でできることは限られているからこそ、私達人間にとって、先人達の言葉(気づきや発見)、歴史、創造の積み重ねは、大きな意味を持つ。

だからこそ、先人達の言葉や残したもの(歴史)によって、「西洋占星術」が今の時代へと発展し引き継がれてきたように、

古代エジプトの宇宙観をはじめとする、東洋的な世界観(思想)が引き継がれてきた歴史(系譜)も、そういった世界観の中で「星読み」をしようと試みた歴史も、確かに「人類の歴史の中の一部として」存在しているのだ、という「軌跡(積み重ね)」を明らかにしようとしているのかもしれない。

ひとつ、先にお伝えしておきたいのは、

オリエント占星術は、本サイトによく登場する「シュタイナー」や、「空海」の言葉を参考にして作られたものではない。

エメラルドタブレット、イエス(聖書)、古代ケルト、空海(という存在)については、過去に既に触れてきており、講座内でも、その繋がりについて触れている

実際、これまで、「シュタイナー」や「空海」の本については、まともに触れる機会がなかった。

ベーシック・アドバンスと完了し、マスターコースが中盤に差し掛かった頃、突如として「シュタイナーの本」に出逢い、

あまりにも「オリエント占星術」で伝えていた世界観、その背景を補うような言葉の数々に、衝撃を受けたのだった。
(空海の本を初めて読んだのも、確かその頃だったと思う)

わたしは、これらの「言葉」や「発見」を引用し、繋がりを見出し、その意味(解釈)の理解を深めたり、伝えていくことは、とても意義のあることだと感じた。

しかし、それらは同時に、自らの「創造性」を放棄するものであってはならない、と思っている。

それは、単なる引用(あるいは、権威の拝借)などではなく、伝えてきてくれた先人達への敬意であり、バトンを受け取ったことの表明、さらなる進化と、未来へと「バトンを繋いでいく」責務(役割)を担う、ということでもあった。

また、「歴史(過去の作品)」を引用することの、もう一つの意味として、人間というのは、元来「納得」を求める生き物だ、ということがある。

例えば、「西洋占星術」というものも、先人達がつくりあげたその「歴史(過去の積み重ね)」によって、多くの「納得」が作られているからこそ、これだけ多くの人々が採用しているのだ、ともいえる。

そこには、固く築かれた信念がある。

一方で、「地動説」をはじめとして、当時の政府や時代にとって、都合の悪い歴史は、「消されてきた」という歴史も、確かに存在しているのだ。

例えば、かなり高度な技術(知識)を有していたといわれている、古代エジプトの天文学や占星術に関する資料も、(地動説を異端としていた)ローマ帝国の使者によって焼かれてしまっているが、

エジプトにあるアレクサンドリア図書館がカエサルによって焼失された事件

そんな中でも、時に迫害され、鎮圧されながらも、「真理」を探究し、表現し続けた先人達がいる。

そういったものが「排除」された上での「歴史」、またそれによってつくられた「納得」は、果たして、「真理(本質)」といえるものなのだろうか。

「オリエント占星術」が試みているのは、
いわば、その「排除」されてきたものを
「魂の記憶」と「断片」をかき集め、
取り戻す(復刻させる)作業であり
その先へと、歩みを進めていく作業だ。

そういったことに
僅かながら気がついたとき、

私は、より多くの歴史の理解と、
先人達の言葉を必要とした。

だからこそ、今というタイミングで、
多くの言葉や、作品達と
出逢えているのだと思う。

もし、我々人間達が、「納得」や「分別」を求めない生き物であるならば、そういった作業は、次の時代において「不要」なのかもしれない。

ただ、私達は、すぐには、そういった次元(の理解)には到達できない。

物事には、段階(プロセス)があり、今は、「歴史(認識)」が重んじられる時代だ。

だからこそ、共鳴する「先人達の言葉」や「過去の創造」、そして「魂の記憶」について、わずかにでも残っている「歴史的根拠(断片)」に、あらゆる繋がりを見出し、検証し、伝えていくことは、とても大切な作業だと、感じている。

最後に、

先日出逢ったアニメ
「チ。地球の運動について」の中で

とても共鳴した言葉(シーン)があるので、それをここに残して終わりにしたい。

ヨレンタ

「人は先人の発見を引き継ぐ。それもいつの間にか、自然に、勝手に。だから今を生きる人には、過去の全てが含まれてる。なぜ、人は個別の事象を時系列で捉えるのか。なぜ、人は歴史を見いだすことを強制される認識の構造をしているのか。私が思うにそれは神が人に学びを与えるためだ。つまり歴史は、神の意志の元に成り立ってる。」


ドゥラカ

「神の意志?
何ですか、その意志って?」

ヨレンタ

「聖書に書いてある。神はこの世にある悪を善に変える。それが神の意志。神は人を通してこの世を変えようとしている。長い時間をかけて少しずつ。この今はその大いなる流れの中にある。とどのつまり、人の生まれる意味はその企てに、その試行錯誤に、善への鈍く果てしないにじり寄りに、参加することだと思う。悪を捨て去ることなく飲み込んで直面することでより大きな善が生まれることもある。悪と善。ふたつの道があるんじゃなく、全てはひとつの線の上でつながっている。そう考えたら、かつての憂き節さえも何も無意味なことはない。でも歴史を切り離すとそれが見えなくなって、人は死んだら終わりだと有限性の不安に怯えるようになる。歴史を確認するのは、神が導こうとする方向を確認するのに等しい。だから過去を無視すれば、道に迷う」

〜 アニメ「チ。地球の運動について」第20話より引用 〜

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